人の死を嘆き悲しんではいけない

 雲のさらに上にいます。

 雲海のような。

 女の神様、観音様のような方が立っています(守りだった方)。

 もう地上の人のことを考えるのはちょっと疲れたので、こちらのことを話します。

 果物みたいなおいしいものがたくさんあります。

 熱くもなく冷たくもなく、すっぱくも苦くもなく、辛くもなく、本当においしいものです。

 たくさんいただいています。

 大きい仏様、大きい人たちがたくさんいます。

 大きな門もあります。

 建物もとても大きいです。

 ずっと階段を昇ってここに来たような感じです。

 確かに地上のことを振り返ると、心配事もないわけではないのです。

 今あれやこれや浮かびます。やり残したことです。

 ですが、今はこちらのことをしたいのです。

 自分の本体と一つになるのも近いと思います。

 今そこへいく道を歩いています。

 心を静かに保っていたいです。

 人の死を嘆き悲しんではいけないという意味の一つの部分が分かります。

 今こうしていてそちらから呼ばれると、自分の本体と一つになるのが遅れたりスムーズにいかなかったりするのです。

 そうすると結局、地上の人を守るようになる時期が遅れてしまいます。

 ですから、こちらに来た人のことはさらっとした気持ちで送ってほしいのです。

 どんな亡くなりかたをしようと、嘆き悲しんではいけません。

 こちらに来てしまえば、みんなそちらに居るときより良い状態なのです。

 そして早く成長してそちらの人の役に立とうとしています。

 ですから、それを妨げないでください。

 誰でも1~3年でそちらの人の役に立てるようになります。

 ですから、1周忌や3周忌というのがあります。

 まことに良くできているものだと思います。

 49日まで家にいるというか、こちらとそちらを行ったり来たりしているというのも本当です。

 まだ肉体のエネルギーの名残が残っているからです。

 寂しいと思う必要はありません。

 心はすぐに伝わってきます。

 

 半霊半物質というのは、今の私の状態に近い状態を言います。

 仏教で言うところの、中有(ちゅうう)とか中陰という状態です。

 生きながらにしてこの感覚を持つということです。

 頭が巨大化したような感じがする人もいるでしょう。

 仏と一対一で座ることで、私は現世でこの境地を知りました。

 一対一で向かい合うことです。

 死の恐怖が現実となったとき、人は物質的なものは何もいらなくなります。

 そして自分の心を裸にして仏に語りかけます。

 この状態になることが大切なのです。

 自分の本心をさらけ出すということです。

 普通の人は仏の前でさえ、自分の体裁を取繕います。

 正直な気持ちを打ち明けることをしません。

 本当に素直な心を仏にぶつけた時、仏様は人を受け入れてくださいます。

 最初は自分が仏という鏡に映っているように見えます。

 そしてその後、その鏡が水になって自分を包みます。

 自分も水になったかのようです。

 仏と自分が一つになります。

 向き合うのは自分です。

 ですが、手を差し伸べてくださるのは仏様です。

 私はこの境地を経験してから、病気も死も怖くはなくなりました。

 けっして修行したわけではありません。

 ただ仏の前に座って敬って、そして本心を話しただけです。

 これはいつでも誰でもできるのです。

 やってごらんなさい。

 そういった意味では、病気にかかって死の宣告をされることもまんざらではないでしょう。

 ここで不動心を得たのかもしれません。

 

 いつも傍にいてくれてありがとう。

 ベットの傍にいてくれたこと。こちらに来てからの自慢です。

 全部聞こえていましたよ。

 母さんが来てくれたことも嬉しかった。

 最後までありがとう。

 

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